昭和49年08月18日 月次祭



 例えば家を建てるのにも、基礎造りがいります。その基礎造りをしっかりしておきませんと、しっかりした家が建ちません。基礎造りは出けた。けれども家を建てないまた建てられないと言うなら、こんな馬鹿らしいことはありません。基礎造りは出けたほれをまあ売れた。けれどもおかげでその基礎造りのおかげで、上に立派な家が出けた、建ったと言うので、初めておかげであります。
 今の合楽の場合はそういう事が言えると思うです。二十五年間椛目合楽を通して、まあ一生懸命に基礎造りをした。どういう基礎造りをしたかと言うと、お徳という家を建てる。ね。これからお徳を頂いて行けるという為に、二十五年間いわば基礎造りに専念させて頂いたと。だからこれからはそこにお徳という、いわばあの世にも持って行け、この世にも残しておける。そういうお徳を頂かなければならない、また神様も頂いてくれよと言うて、ようなものをです最近しきりに感じます。
 矢張りそれがお互いの実感になって来なければなりません。成程なあ色々思うて見ると、例えば最近合楽示現活動と言う事が、しきりに言われるが。ね。その合楽示現と言う事はどう言う事か、先ず分からなければなりません。ここでは私が合楽を現すという、まあ言うならば二十五年の間に、これは中には一年の人もありゃ五年の人もある。十年二十年また同時に二十五年、私と共に信心の歩みを進めて来た方達もありますけれども、もう合楽でおかげを頂いて。
 合楽が有り難い所だと、例えば分からせて頂いておるほどしの人ならばです、一応は言うならばその基礎造りが出けたとして、これからの徳積みのおかげを頂いて行かなければならん。それはどう言う事かと言うと、合楽に御神縁を頂いて考えて見ると、第一もう家には薬箱が無くなったと言う事。ね、病気だったおかげを頂いた。それもおかげだけれども、ね、それこそ痛い注射も、苦い薬も飲まんで済むほどしの健康のおかげを頂いておるという事実。薬箱が無くなったという事実。
 おかげで家の中に争いが絶えなかったけれども、まあ争いが無くなった。ね。次にはです、本当に神様のおかげを段々信じさせて頂くようになり、それはその日暮らしではあっても、お金に不自由するような事はない。その日暮らしと言う事はもうその日、その日が約束された安心した生活の事です。昨日は食べたばってん、今日は食べじゃったちゅうのは、それはもうその日暮らしじゃないです。一日暮らしちゅう事。ね。
 二日暮らしちゅうごたる事は、そういう信者は、合楽にはもう一人もいなくなったと言う事なんです。ね。しかも、そういう風に頂いて見れば見るほど、これはお父さん、本当に家はおかげ頂いとるよねと。これが極楽の言うならば始めであろうと。本当お話を頂けば頂くほど、極楽のおかげを頂いとるよ。そこでその極楽のおかげを、おかげと実感して、その事に対して神恩奉謝の生活が出けるという事。いくら頂いてもいくら頂いても、頂き足らんような思い方。もう欲には目がない限りがない。ね。
 自分が頂かずに人ばっかりが頂き寄る様に見えると言う様な事では、もうそのおかげ事態が死んでおるのだ。もうおかげが育たないそれでは。ね。そこで渾然と気付かせて頂いて、おかげを頂いておる事実をいわば実感して。そのおかげその喜びをです私は、ね、一応合楽の御神縁を頂いておる方達は、一応皆極楽にも段階がありましょう沢山。けれども、ね、まあ最低な極楽ではあるけれども、極楽のおかげを頂いておると言う事実をです。ね、分からせてもろうてお礼の生活、お礼の信心が出けなければならん。
 本当に信心という事はね、もう今朝から頂きますように。信心は見やすいものじゃが、氏子から難しゅうすると仰るように。これば頼まんならんから、これば願わんならんから。どうでもこうでもこげなおかげば頂かんならんから、例えばお参りせんならん、修行せんならんという事になるとそれは非常にきつい。けれどもおかげを実感して、そのおかげの、そのお礼の心が躍動して来る。
 その躍動の心がですお参りにもなり、御用にもなって来る時に信心は見やすいもの、言うならば信心は有り難い、楽しいものという事になる。だから見やすいのだという意味の事をまあ頂いた。ね、そういう意味においてです、言うならばです。おかげで極楽までのおかげは頂いておるとしてです。ね、これが言うならば、今日今晩私が言う、基礎造りは出けたという事なんです。ね、だからこの基礎造りが出けてその上で、ただ極楽まででちゃあんとこうやってしとるなら、必ずそれに飽きが来る。
 そうでしょう花もお茶でも、上でちゃんと座わっとらんならんと、こげな退屈な事はないです。その喜びをその躍動をです、合楽に向かわなければならないと言う事です。そこを今合楽では、合楽示現活動と言っております。その合楽示現活動そういう運動にお互い参画させてもらわなければならない。私はこういう風に申しますともう幾人もの方から聞かれ、注意を受けたんです。先生貴方は参画参画ち言いなさいますが、あれは大体どげな意味ですかち。
 もう何か私が言い違えとると、私が大体無学ですから良うそげな事がありますやっぱ。ね、けどもこれは間違いがない。参画という事は例えばあの、参加せろという意味ですかと。そげな事っちゃない。参加するという意味よりか、もっと深い意味があるんだと。ね。親先生がああ言いよるから、合楽示現活動に、いわば参画させて頂くと言う事はです。ね、本当にそれをそうだと分からせてもろうて、次の活動に移っていくという、しかも許されて、おかげを頂いてするという意味なんだという風に。
 私は申して説明をさせて頂きよる皆さんの中にもです。親先生が参画参画ち言いよるが、あれは何ごつじゃろうかと思っとりなさる方があるかも知れません。それで、私は今日は念の為に西岡先生に、あの参画という字はどういう風に字引の上に出ておるかと言うと、大きな字引二冊も引いてもらいました。ところがやっぱり参画というのが出ております。その意味はね、私がその夢を頂いて、本当に恐れ入った。参画という意味はね参画とはね、計画に預かると言う事だち言われております。
 言うならば神様の計画にですね、預からせてもらうと言う事はですお願いをして、ね、私もおかげに預からせてもらうと言うでしょう。私が参加してあげると言う様な事っちゃないのです。親先生が合楽示現活動と最近仰る事は、これは天地金乃神様のね、二十五年間、待ちに待ちに望まれた一つの計画が出来上がったんだ、二十五年でそれはどう言う事が出来あがったかと言うと、基礎が出けた計画が出けた。これから氏子に徳を受けてもらえる時代になって来た。
 それを合楽では自力の信心から他力への信心と。今までは自力を中心にする所のいわば他力が十であった。それが言うならば、ね、他力が中心になって、自力というのは、どこまでも十という形を取った信心になって来た。言うならば信心がすんなりとして来た。誰に見てもろうても、誰に聞いてもろうてもです。成程と合点が行くようになった。はあとても合楽の人達にそうに修行が出来るけれども、十日も十五日もあげん断食せにゃんごたんならとても私だん出けん。
 ほらあもうこの寒かつに水被らっしゃるげな。もうそういうくらいな修行はです、合楽ではもうそれこそ楽しゅう皆さん出けておるようなおかげを頂いて来たけれども。そういう、それはなら、人が見たり聞いたりしたら、そげな事っじゃ出けんという事になって来た。ね。そこでです、昨日の合楽会でしたけれども。ね、最近の他力を芯にして、自力が十になって行くという信心はこれは、ね、そこのとこの体得をさせてもろうたらです、実に楽な事です。
 今朝の御理解で頂くなら、見やすい事になって来るけれども、けれどもそれは本当言うたらもっと難しい。難しいけれども人に聞いてもろうても、それならば皆が合点が行くと言うのです。ね。それを私はまあ一言、二言じゃありませんけれども。ね、水被る事も止めた、断食するような事も止めた。あれを断つこれを断つというのは、物断ちのような修行を止めた。その代わりにです神様が私に求めたもう。
 神様が貴方に求めたもう神様の求めに応じた修行だけは、もう水も漏らさん思いで受けて行く、させて頂こうという生き方に変わったという事です。上野先生が申した。親先生のお書き下げを頂いた。そのお書き下げに、白露を(こくたん?)秋のうねりかな、というお唄を頂いた。毎日毎日取り組ませて頂いて。ね、言うならば秋の収穫はもう目の前にしておる、おかげはもう目の前である。
 それにです、ちょっとした事に腹が立った。ちょっとした事が悔めれる悔まれてならない、イライラするという時に、あらっまた白露をこぼしたなと、毎日をそこん所に取り組んでおると言うのである。それではねもうおかげが間の辺りに迫っておっても、それじゃまた、やり直し、やり直しと言う様な事になる。それが一つ身についてしまうと言う事なんです。そこでです今日は決して白露をこぼすような事がないように、どんな例えばムカッとするような事があっても、金光様で受けて行くぞと。
 どんなきつい分の悪い事を言われてもです、それを実意丁寧にやって行くぞと言う様にです。まあ言うたり思うたりする事は見やすいけれども、その時になるとやり損のうとる。そこでです。結局は私が本気でより有り難い私にならせて頂くという時。有り難いという時にならば、もう白露をこぼす段じゃなかち。一切が有り難い。だからいよいよ有り難いけいこをさせてもらわんならん。
 昨夜東京の親戚の方達が今度の御大祭に皆参って来てます。善導寺それから鳥栖関係。それで十何人でしたか、昨日初めてあの皆に集まってもらって、まあ夕食を一緒にさせて頂いたんです。その中で東京の稔さんがこういう事を言ってます。本当にそれはあの奥さんと二人。ね、聡子さんとお二人で、もう夫婦を揃えて顔を見合わせながら話すんです。もう俺んとこほどし、本当に職人に恵まれ小僧に恵まれ、お客さんに恵まれとる所はないと言うて、夫婦がいつも感謝しとりますと、こう言うのである。
 第一私の方の小僧、私共の職人達。もうこれはもう本当にもう、もうお客さんから褒められると。あげな良か小僧がどうして(いや?)と言い出したか。あの職人さんが素晴らしいと。私共が夫婦でこうやって家を例えば空けとってもです、任しておれれる。もうとてもどうかですね、感謝の意を現さなければおられないという気がすると言うて、聡子さんと夫婦その事を私に話すんです。
 成程おかげ頂くはずだと私は思いました。ね、成程最近例えば人間関係、特になら使用人とか従業員の方達に非常に色んな問題がある。だからそう言う様な事が、なら稔さんがどうして出けるか。信心も出けておらんのにです、信心でしとるとは思われないけれども。結局自分自身が小僧の味を知っておる。自分自身が職人であった時代の事があるという事なんだ。そして、あの小僧時代にああいう事を言われたりされたりした事は、それこそ血の涙が出るほどに歯痒い事であった。
 自分が店主になったならこういう事があってはならない。職人の時にああ言われた事は嬉しかった。こう言う事はつらい。そこんとこは良く言うなら、甘いも薄いも(噛み分けて?)おる所からです、私はなら使用人を大事にしなければ、おられないというものが、生まれて来た。今日も特別奉修員の方達の御祈念の後に、私はそういう意味の事を聞いて頂いた。この頃から私がお知らせを頂いて。合楽の教会から大黒様が、もうコロコロと、もう沢山おんなさって、よそに出て行きなさる所を頂いた。
 そういうお話を私が月次祭の時でしたか、朝の御祈念に致しましたら、さあ大黒様が集まって来る集まって来る。何と五拾三体集まって来なさったです。今日また二体また後ろ裏に行ったり来とる、その五拾四体になりましたから。合楽から大黒様がゴロゴロと。今日は秋山さん達を中心にして、あのこの大黒様があまりに良く出けておられるから、四国に注文しよう。おそらく何十20~30人位はもう、それを買うてくれと言う人があるんです。合楽から百体からの言うなら大黒様がころがり出ておいでられる。
 事実また本当にです今日は例えば、なら久富さんの話をするならです。お祭りさせて頂いてから、この方毎日お金のお供えをさせて頂かん事はないち言うんです。熊谷さんなんかは、とても本当に、たまがるようなお金が、お祭りと同時に入って来るような働きになって来たと言う。だからね皆さんは大黒様をお祭りをする。皆がこの頃からお祭りをして、やたらに大黒様。今まではせんで蔵の中に(     )、わざわざ鼻出して来てから、発足の上に上げて。
 御神飯もお供えすりゃ、お水もお茶もお供えしてから、もうとにかく神様よりか大黒様ちゅうごたる風で、もう拝みよる。人間っちゃ欲なもんですばい。私は本当大黒様が集まって来るにして、これが本当に欲の姿じゃと私思いました。はっはっは。いやほんな事っです。今日もあの吉井の熊谷、何人か森道さんがやって来てその、その話を聞いてからね。はあそげな話なら
  (B面に続く)
 今朝はその中村さんが特別奉修員に参って来てあった。そしたら貴方ここへ来てから貴方、腹かかっしゃりよる。親先生ばっかり(    )私にはそげな教えもせんのに。人にばっかどんどんあげちからち言うてから、私は人にあげるち、その私があげた訳じゃないばってん、皆が持って来て頂いて帰りなさるとじゃん。それけん貴方ここには大黒様がいくつでん売られるけん、私はいっちょん金の(価値?)が分からんごんなって来た。それで、もうやかましかったです。
 でもう後ろの者がちょいと、もうおばちゃん良かて、これはまいっちょ改めて買おうち秋山さんが言うたから、ようやく後ろへ下がりなさったです。ほらあもう大黒様の魅力っちゃ大した事だ。ね、いやそう言う様な事がです、言うなら二十五年間、言うならば私が沈黙を破ってきた。沈黙を、ね、例えば私がお導きをしなさいとか、人に広めなさいとかと言う様な事は二十五年間、これだけも言うて来なかったんです。
 そして現在の合楽だ。それを今例えばこの一月あまりは、もう口を開けば合楽示現活動運動という事をです、皆さんにです。自分のおかげを頂いた、毎日ですねもうそのおかげの泉を五冊も十冊も持って行って、それを売って歩いておる方達があります。ね。ほれはもう私が今度の大祭でもう、それこそあの奇跡の最近、毎日毎日の奇跡の連続だと言われておりますが。あの大祭のお参りをさせて頂いてです。
 四十二度もある子供を抱いて来て。ね。そしてここへ着くと途端におかげを頂いて、明くる日親子四人でお礼に出て来たというような方やら。ね、胃ガンの疑いで流動食ばっかりしか頂けなかったという人が、あの日の御直会のパンとジュースを頂いて、その晩の夕食が頂けて、明くる朝のみそのお汁に、普通の固いご飯が食べられたと言うて、お礼に出て来たり。もうそれはねもう、あの驚くばかりのおかげを昨日今日。
 例えばならあのそのお祭りを済んだ後、久留米の三橋先生が奉仕した。御大祭が済んでしもうていつもなら(       )すぐ帰ってしまうのに、沢山ここに続いたんです、お礼のお届けが。もう今日は私は初めてこちらのお参りさせて頂いたら、こげな有り難い事はなかった、こういうおかげを頂いた。もうそれは三橋先生の話を聞いただけでもです、いかに今度の例えば御大祭がいわゆる合楽が、ね、言うならば変革して来た。ね、今まで言うならば自力の信心であったのが、他力の信心になって来た。
 途端にですそう言う様な変わり方になって来たのです。それはしかし今ほとんどが新たな方達ばっかりです、そういうおかげを受けておるのが。なぜ神様がです、信心も分からん、信心もした事のない、そういう人達になぜ奇跡を見せなさらなければならないかと。そこに、私は神願を思わずにはおられない。信心のない者に神の働きを見せる、神の力を見せる。ね、そしてですその神様にすがって、人間の幸せの言うなら条件が足ろうて行く、極楽のおかげを頂いて、そのおかげをです。
 合楽示現活動に働いてもらわなければならないからこそ、今合楽ではこのような奇跡が連続しておるんです。ね。一週間も(ひけつ?)しておった人が、帰りにはあのもうこちらの便所でもう沢山おかげを頂いたという人もありました。ね。そこでです、ね、神様がね、おかげをおかげと感じると言う事を願ってござるという事が分かります。はあ神様のおかげちゃあ、もう本当に不思議な事じゃ、有り難い事だという、そのおかげの実感というものがです、ならおかげを頂いても、おかげを頂いても。
 実際見渡してみると極楽のおかげを頂きながら、御参拝も出来ないという人が合楽にはいくらもあると言う事です。ね、それはおかげ頂いとるっちゃ思うばってん、本当の実感として躍動してこない、合楽というものが。言うなら極楽におりながら、極楽の事実をです、実感してないという事です。ね、だから合楽示現活動に参画も出来ないという事になるのです。同時に、もう一つあるんです。私は昨日合楽会の方達に、それこそ何十年ぶりに思い出したお話をさせて頂いた。
 昔子供の時に聞いた話なんです。キリスト教のお話の中に、(なわのこうとい?)というのがありますよね。ヨーロッパにもう五千六千年も、もしくは一万年もなるかもしれません。前に、ノアという兄弟があった。その人達が兄弟神憑りになって。ね、大洪水が起きて来るから、いわゆるまああの箱船ちゅうです。箱船を作っておかなければ大変な事になるぞと言うて、そのヨーロッパ中を触れて周った。
 けれども気違いが何を言いよるじゃろうかと言うて、誰も耳を貸す人がなかったね、ただ、その兄弟の話をそういうような事になったら大変だと言うて、6人の参加者があった。それから間もなくね、四十日間雨が降り続いたと言うんです。もうどこもここも大洪水。いわゆる高い山へ山へと皆が登って行った、助かろうと。ところがそこにはです、それなら獅子やら虎やらが、毒蛇達までも皆その山に登ったと言うのです。
 さあ登って助かる事は助かったけれども、そういう猛獣達がお腹を減らして、結局人間を餌食にしてしもうて、ヨーロッパ全土にです、人間がいなくなって、たった残ったのはノアの箱舟に乗らせて頂いておった、その8人だけであったと。その8人が今のヨーロッパの白人種の元祖だという話を、本当に忘れてしもうとったその話を聞かせて頂いた。ね。たまたま、私は昨日ある本を読ませて頂いておったら。
 大本教の教祖のお話が、を読んだ。おばあさんで無学で、金光様の御信心を熱心に手厚く頂いておる内に、神憑りになられるようになった。字も一字も分からんという人が筆を持っとる。こうやって書かれる。それをお筆先と言った。素晴らしい御教えが次々と出て来る。それが大本教の教典、原点だと言われております。こういう事なんです。これは言葉は分かりにくい所はちょっと私流に書き換えました。
 意味は同じです。神は助けようと思うて、繰り返し話してやっても、いつも鳴く鳥の声と油断していると、とちめんぼうふって、逆さになってお詫びせんならん時が来る。その時になっては遅過ぎる。身から出たサビと諦めて、往生いたそうより仕様がないと言ってる。教祖様も世は開けると言うけれども、開けるのではないめげて行くのだと仰った。そのめげて来ておるのだと言う事現在は。ね、合楽がどうして今こう二十五年も沈黙を破って、そして皆にこうやって話しかけておる、呼びかけておるのをです。ね、
 こう言う様な大変な事もあるからなのです。ね、それはなら科学的にです、ね、数学的にです。計算してもです、ね、人口問題と言い公害の問題と言い、資源の問題と言いです。もう、どの一つだって、(     )問題ばっかりを、の中にある(月見嬢の騒人?)氏子であるという事。本当にですこの運動に参画させてもろうて。この合楽示現活動に参画させてもろうて。言うならば光臨と仰る。いわゆる光の輪を愈々広げに広げて行かなければならない時代になっておると言う事。ね。
 私のお話をああまた鳥がさえずりよるちゅうごたる風で聞いておる人が沢山ありゃせんかと思うです合楽には。ね。私のこれをただ鳥が鳴き出す、又さえずりよると言う様な頂き方です、とちめんぼうはらんならん事が出けん。ね。その証拠に例えば今度の夏の祈願祭にです。本当に私の運動に参画しておる人は、もう知り合い親戚の者に皆、さあお参りをしよう、お参りしよう、早うお参りなさい、車に乗せて行ってあげましょう、電話を掛ける、ハガキを出すというような働きをしてるです。ね、
 それの一人も出けてなかったと言うならばです貴方は、ね、私の言う事を鳥のさえずり、鳥の鳴き声とども聞いておるような人であると。昨日私はそういう話を思い出し、こういう本の一節を読ませて頂いてです。なお愈々皆さんにです、合楽示現活動をという、その活動に皆さんが参画なさらなければならない。合楽示現と言う事は示す現すと言う様に私は説明しておったけれども、これも字引を引いて見るとです。神仏が不思議な力、働きを、霊験をです、示し現す事だと字引に出ておるです。
 だからもう自分が示すのじゃない。神様が現させて下さる、そういう尊い御用に私共は参画させて頂くという事はそういう御用に。ね。神様のそのような大きな計画にです、預からせて頂くという事なのです。今日私はえぇっと、高橋さんにあの表の和賀心時代を創る、あれもだいぶ古うなったから、一つ塗り替えて下さい。ね、そしてこちらの合楽、ね、合楽を、合楽示現活動運動に参画させて頂こうと言う様なタイトルでです、書き直して下さいと言うて今朝からお願いした事です。
 もう合楽を上げてその参画させてもろうて。そして現在の合楽人だけが助かるのではない、沢山の人に助かってもらわねばならない事の為にですね。いよいよ信心を高めて行かなきゃならない。今こそです言うならば二十五年間係で、言うならそういう基礎が出けた。基礎が出けたけれどもそれの上に家を建てないなら、こんなに馬鹿らしい事はないじゃないか。その家こそが徳なんだ。徳積みてね、栄える家や菊の花である。ね。
 今までは徳を頂く事の為の、言うなら受け物を作って来た二十五年間であった。だから非常にきつかった。ね、自力的なものであった。徳の力光を持って、私共が例えば最近合楽で現れておるようなです。これはもう当におかげ頂いてるです。ね。しかもならあのおかげ、遠隔地の方達がおかげの泉一本でおかげを受けておると言う事実です。ね。だからそういう事実を私共が本当に分からせてもろうてです。ね。
 今日私は、特別奉修員の方達にお話した事ですけれども、大黒様がコロコロと、さあなら買うちからでも一つお祭りをしてから、家もお祭りしようと言う事はね、それこそお金がどんどん、ね、入って来るという意味ではないですよと。本当の意味において、大黒様を、ね、大事にするという人達がおかげを受けるのですよと。ここで言う大黒様とはどういう事か分かりますかち、と言うて私は皆に問うた。
 今朝から安東さんの奥さんが、この大祭の時に御神前で、大黒様が丁度お芝居のあのさんばそうを踏むようにして、さんばそうを鈴を持ってある。所が打ち出の小槌を持って大黒様がもう、それこそ手の舞足の舞いとあげんしてから、その舞を舞うておられるとこを頂いた。それをよく見ると何とその大黒様が親先生であったと言う。昨夜は自分のお家の御霊様の前でです。
 御祈念をさせて貰いよったら、やっぱり御霊様の前でです、いわゆる親先生の大黒様が打ち出の小槌を、それこそ鈴を振っておられるような形で舞うておられる所を頂いた。ね。言うならば大黒様と言う事は、即親先生ということ。親先生を大事にするから、おかげ頂くのだと。なら親先生を大事にすると言う事は、さあ親先生を撫でたり、さすったりする事かと言う事では決してない。親先生の言われる事を粗末にしない、大事にすると言う事なんです。ね。
 そこでなら私が今言うておる事がどう言う事かと言うと、合楽示現活動に参画させて頂くと言う様な事をですね素直に。例えば今朝は私御心眼に丁度あの、こうこうネジをまくとあの、こうこうやって動く人形がおりますよね。今だからネジをかけられて、尻を叩かれて、おかげを頂かんならんから活動しておる人もありましょう。ね、それでもいいです。活動すりゃ活動したがとおかげ頂くから。ね、けれども本当にです。ね、尻を叩かれんでも、ネジをまかれんでも、その合楽示現活動にです。ね。
 参画させて下さいという。そういうおかげに預からせて下さいという願いを持っておかげを頂くなら、いよいよ生きた働きがそっから生まれて来る。それを初めて、合楽を現したという事になる。言うならば、神様も助かって下されば、私共も助かられるという道が開けて来る。それが合楽示現活動なのであります。ね。この事がいわば洗脳をされて、ね、それがスッキリと自分の物になるまでは、この事は私は繰り返し、繰り返し皆さんに聞いて頂く事でしょう。ね、どうぞ皆さんの心の迷いを取り祓うて。
 親先生がまたさえずりござるというような頂き方をしては、それは丁度基礎は出けたのに、家を建ててはいない、ね、断てる事が出けないという人達であります。実に極楽までは行っておるけれども、極楽に行ったからというて、お徳になるものではありません。極楽のもう一つ向こうの合楽に行った時に、初めてそれがお徳になるという事を、今日は聞いて頂きましたね。
   どうぞ。